何故




─よう。






昔、ネットに上げた創作物に「何故作ったし」とコメントがついたことがあります。



答えは簡単です。



作らずに死ぬのが怖いからです。



作らずに死んだ場合、僕は「作らなかった自分」に殺されたと考えて差し支えないでしょう。



僕は、ネットに絵も物語も、音も、形のあるものも、動画も投稿したことがあります。



何故それらを投稿していたのか。



そうすることでしか自分の生きた証拠を残せないからです。何か頭に思い浮かんだ形、色、触り心地、臭い、味だってあるかもしれません。



それらは思いついた瞬間、最も輝いていて、はっきりとした輪郭をしています。
名前がなくとも、色が無くとも、生きていて、今生きているどんな命に引けを取らない生命力を発揮しているのです。



ひとたび芽吹いたそのアイデアを、僕は色も形も物語りも練って練って練らねばいけないのです。
そうして形にしなくては、形にしなくては・・・どんどん腐って錆び付き、枯れ、ぽろぽろと砂のように、どこか夢が覚めるときのように、いなくなってしまうのです。形にできなかったものがいくつもあり、そういうものが積もり積もってくると、なにかがおかしくなってきます。手が震えたり、ご飯がおいしくなかったり、生活が違和感をまとって、私の手首を掴んで離さないのです。不安という名前です。



こんなことが、20数年の人生において、何度も何度もありました。



朝起きたとき。



洗濯機のボタンをいつもと同じ順番に押してカーソルを合わせ、スタートボタンを押すとき。



ホームに向かって電車が向かってくるとき。どこかの家で布団を叩く音が聴こえたとき。



シャンプーが切れたとき。誰かに怒られているとき。



今、こうしてブログを書いているときも。






あふれ出してくるアイデア。それは、ちっとも優れていたり、何が綺麗であったりするかはわかりませんし、実際にそうであるかはわかりません。そんなことはどうでもいいのです。



それでも形にしなくてはならないのです。僕の脳内を駆けずりまわる影に光を当て、その姿をここに映すことが出来るのは、僕だけなんです。



そうでない人の気持ちなど、理解できません。誰にも邪魔されたくありません。
また、そうでない人も、僕のようなヤツを理解する必要も無いでしょう。



強迫観念に突き動かされて生きているだけです。






しかし、ここ一年ほど、ほとんどそういった活動が出来なくなっています。
そういうわけで、おかしくなりました。






なんて書いてあるのか、自分でもよくわかりません。なんの話だっけ?