【夢日記】魚の女

今にも身を潰さんと静かに荒れ狂う深海の底で、人々が息を止めている。止めるというより正確には、我々は水の中で呼吸をすることが出来ない生き物として当たり前の状況にいるだけのことだ。
辺りを見渡せば、本当は酸素が欲しくて上を眺めている男や、しきりに岩を剥いで空気の詰まった泡のありかを求める女、儚げに静かに接吻をする男女、どこから持ってきたのか、水面から延びる筒のようなものをいやしくくわえている男が居る。私の前に居た女はしばらく倒れていたが、先ほど水でパンパンになった体をゆっくりと上にのぼらせていった。それを見た隣の男は怖じ気付いたのか、体をばたつかせて上へ泳いでゆく。別の女が男の足を掴んでしばらく揉み合いになった末、靴が片足だけになった男が、とうとう首から下だけになりゆっくり遠ざかってゆく。息は出来たのだろうか。


息をするのは恥である、人生は我慢であると教わった。声の無い世界で誰もがそう思っているであろうことは見るに明らかだった。私も酷く教えられ、軽い体のために似合わない重すぎる枷をつけられた。この枷をどうして他人がつけていないのか不思議だったことも、自分だけがこれをつけていることを恥じたことも、つけていない他人を恨めしく思ったこともあった。


そんな私は到底水面の上を知る気にはならず、いささか目立つ枷を砂の底に潜め、誰よりも息を殺して無心で寝転がっている。奥にある水面は暗い。ここも嫌と言うほど暗いが、恐らくこんなに暗いのは水の深さだけでなく、浮かぶ死体が増えすぎたことで外から閉ざされてしまったからだ。


上を見上げれば憂鬱になるし、うつ伏せになれば近くで岩をゴトゴト動かす男の嫌な地響きがしてたまらない。そいつに背を向けるように寝返ると、今度はおそらくずる賢く延びた筒を奪い合う男達が居て甚だ目障りだ。仰向けになり眠りにつこうと、目を閉じて両耳を塞いだ。 どんどんざわざわといった音が遠ざかり、時間が過ぎた。


目を開けると見たことの無い女が居た。私の顔を覗きこみ、その後に足を見る。交互にそれを繰返し、しきりに悲しい顔をする。自分の足を見ると、砂から枷が覗いていた。見られてしまった。彼女が砂を払って出したのだろうか。


少し腹が立った。しかし女の腰から下が脚ではなく魚の尾びれのようなものであると気付くまでにいささか時間を要したのは、目の前にあるその女の顔がとても綺麗であったからだ。誰もがずっと顰め面で固く口を閉じていたのに、私は見とれてしまってつい口を開いた。私の口から僅かに泡がこぼれ、向かい合わせになった口に吸い込まれて行った。人魚は微笑んだ。


人魚は余計な波を生まぬよう、ゆっくりと辺りを泳いでみせた。鰓でもついているのか、苦しいそぶりも見せなかった。海の底に座りながら誰よりもこの世界に適応するその光景を見ていると、強い憧れを抱かざるを得ない。彼女を見れば見るほど、これまでに教え込まれたこの世の美徳が馬鹿馬鹿しく思えた。


帰ってきた人魚はゆっくりと、私の足首に手を伸ばした。少しいじったり軽く揺さぶったりするが、足についた鉄の輪の跡を、大きく外れた動きをすることはなかった。いたたまれなくなったのか、悲しい顔をして私の肩を掴みうつむいた。泣いているのだろうか、されど涙を流しているのかは解らなかった。


この女は、私を可哀想だと思っているのだろうか。助けることなど無駄なのだ。気にするな、それは私の体の一部だ。君はそうして泳いで、自由でさえ居てくれればそれでいい。伝える術を持たず、目頭が熱くなって人魚を抱き寄せた。人魚もそのまま静かになった。


そんな時間を破ったのは、強い水の流れを感じた瞬間だ。それまでにない大きな流れに驚き水面を見上げると、天が少しずつ、確実に近付いてくるのが見えた。遠くで岩を動かしていた女が泡を掘り当てたのだろうか。


周りの者達がだんだんとそれに気付き、遠ざかっていったり、水面の方にのぼったり立ち上がったりした。掘り当てた男は真下の渦に吸い込まれて居なくなり、筒を奪い合っていた者は、今度は足元の岩を掴み、男女はこの世の終わりまで続くような長い接吻を続ける。天に浮かぶ膨れた死体たちが頭上から迫る。


私は座り、渦を背に人魚を抱いた。枷の重さが幸いして、我々はなんとか耐えることが出来た。視界の端でキスをする男女を見て、私は見よう見まねで人魚に同じことをした。酸素を互いに送り合った瞬間、彼女と共にここから抜け出して自由になりたいと強く思った。だんだん水位が下がり、渦が強くなる。次々に体が持ち上がり、人々が吸い込まれてゆく。枷ごと私の体が持ち上がり、けれども決して手は話すまいと、必死に人魚を抱き締めた。


目が覚めると、新しい空気が身体を襲い、猛烈な吐き気がした。嗚咽で一杯の涙目が必死に景色を見定める。とても大きな硝子瓶のようなものの中に居ると気付いた。ぶくぶくと太った死体の山の向こうで片足靴の男が口から苦しそうに水を吐き出しているのが見えた。私もこれまでの常識を溜め込んだかのような水を沢山吐き、そうだ、彼女はと、右手に掴んだ白い手を、その先に横たわる人と魚の身体をしたものを必死に認識する。


その人魚はぐったりとしていた。肩を揺さぶり、口を付けてから必死に声をかけると、苦しそうに、しかし着実に呼吸をこなしてゆく私の目を見て静かに笑った。そうして水の無い新たな世界で、彼女はやがて動かなくなった。