4万の男 その3 【完結編】




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4万の男 その1


4万の男 その2



※当記事は「追憶篇」カテゴリにあり、原則筆者の経験に基づく内容を記載しておりますが、ほんのちょっとだけ盛っていたり事実とは異なっていたりします。






よう。





はてなブログってライブドアに対して人生の闇をぶちまけた文豪が多いように思います。

いかにも「無職のさけび」といったハードな闇、社会不適合者特有の風俗レポート。うらやましいなあ。僕もああいうヒットブログとか書けたらいいのに。と思うことがよくあります。




しかしながら、それははてなに移転したからと言ってなにひとつ成し遂げられることはないでしょう。

だから僕の場所はいつまでもTwitterのようなところで、そこにすら不快と言われなかなかぶちまけられない長文がただここに集まって醜くなって・・・身内ですらろくに読むことが無い、こういう体を成しているんです。いつか、ここに書いたせいで僕にとって都合が悪くなるような内容もあるでしょう。しかし、僕はそれを見越して、配慮して書くことすら出来ません。馬鹿だから。





今回で4万の男シリーズは完結です。

それ以来働いていないからです。




スクールカーストの闇を走り、破壊の嗚咽を指差され、
陰口の泥濘に揉まれてもなお、可愛い可愛い我が命。

肌寒い国道に、第3幕が開くのです。







専門学校の時間割がたまたま週4だった時期。休みだった水曜と土曜にアルバイトを入れることにしました。


その少し前に友人の紹介でクッソ遠い薬局の面接を受けたものの「接客もレジ打ちも、モノの数を数えるのも俺には無理だ」とどうしても思ってしまったため、選考を辞退した僕が一ヶ月分の勇気を振り絞って電話をかけた先は、だいぶ離れているわりに国道の分岐路だらけで車以外には迂回路だらけの歩きにくい要塞のような場所、つまり何の免許も持たない僕にとっては地獄のような場所にある工場でした。




その工場は「なんでも作る」と評判のところで、発注されるものは木製のオブジェ、イベント用の立像ほか、大きなものすべてといったところ。

面接に伺う電話をした際は電話に出た社長(そこの地元商工会加盟企業一覧で見た名前だったのでそう)に「いつでも来ていいよ」と言われ、実際に行けば面接は行われず、物理的にも中身的にも立ち話のような流れで「明日から来ていいから」と口約束でしかない手続き以下のやりとりをされてしまい、履歴書を眺めるなり「人手は足りないからいつでも来ていいよ」と言われ。

あまりにもテキトーすぎる印象がありました。結局面接(?)に押しかけた日は少し忙しかったため、2週間後に「水曜と土曜に出られます」と申告しました。




初日。社長に言われたのは

「各部署で各々の作業をやってる人が居るから、何かお手伝いできることはありませんかって自分から言いに行け。ここはそういう所だ。代々そうやってきたんだから」


なんていう話。嫌な予感がしました。




工場といってもコンベアのラインで製造されるようなものは何一つなく、パーツの切り出しから接着なりネジ留めなりの組み立てに塗装まですべて職人の手作業によるもの。作るたび素材から工程まで全く異なるため、そのために刃物で木や金属を切り出したり、つなぎとめる技術が求められているのだろうことが、なんとなくわかりました。




何より人手は足りないというものの、既に全ての行程においてプロだらけなのです。つまり、僕に出来ることなど「アレ持ってきて」に応えるか、作業で出た削りカスの掃除くらいなものです。雑用のなかでもペーペーに出来るものは本当にちょっとのちょっと。もくもくと作業に没頭するオッサン達に付け入る隙はほとんどありません。




そんな中でなんとか勝ち取ったのが、ボンドで木材を接着しながら組み立てる作業。しかしながら大掛かりな割りに一件の作業を1週間ほどで納品してしまうほど腕の立つ手際のいい職人がゴロゴロ居るため、そのときにたまたま入っていた仕事が僕でも出来るものでない場合マジで仕事がありませんでした。半分は掃除が仕事でしたね。また土曜は日雇い派遣登録の人をお願いしているそうで、僕は彼らとボンドを塗る仕事に従事していました。




従業員はだいたい15人前後。シフトがあるらしく、変わりばんこに出ているのか現場は10人くらいで動いていたように思います。その7割くらいを構成している職人のおっさんたちは近所から歩きで来ている人が多いようで、昼間からアサヒビール片手に黙々と病院の入り口に立つ予定のぞうさんを彫っている人、くわえタバコでナイフや彫刻刀を研ぐ人、そんな面々が殺伐な空気を醸しています。

だだっぴろい町工場のゴムシートでできた床に置かれたコンクリートブロックに腰かけ、木材に線を引いたり彫刻を片手に難しい顔をしているおっさん達。今にも味方の基地を強襲するという不可解な作戦に参加させられてもおかしくない。




どういうわけか喫煙者率が尋常ではないのです。可燃性のボンドを使った接着作業やシンナーで溶いたスプレーの塗装をするとき以外は常に全員吸っていました。僕は当時熱烈な嫌煙思想を持っていたので嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、休憩時間や昼休みの終わりに一服入れる時などはベンチに並んでほぼ全員吸っていました。

社長は吸っていなかったけど、おじいちゃんだったので恐らくつい最近辞めたのかもしれないなぁと想像しながら、なけなしの頭をフル回転させて振られた世間話に返したりしてやりすごしました。

僕はゴムボンドがこびりついた手を隠しながら、右半身がキャスターの甘ったるい臭いで、左半身がラッキーストライクのガツンと来る香ばしい臭いのキカイダーになりました。

向かいで柱に寄りかかって斜陽を眺めるお姉さんがきれいで、ピアニッシモの細長い紙巻が似合うなあと考えていました。志田未来に似ていました。




何故こんなところに女性が居るんだろう。そう思うくらいには似つかわしくない可愛い人でした。誰かの親戚なのかもしれない。お姉さんと言ったものの、僕より年下かもしれない。タバコを吸っているだけで未成年かもしれない。他にも僕とそう変わらない年頃に見えるお姉さんたちが出入りしては事務やPCでのデジタル作業をこなしていて、いよいよもって僕は特に歓迎されていないことがわかりました。




5日目には早くもサボり癖がつきました。

自ら進んで箒を手に取り、工場の端から端まで歩いては上手くもないゴミを集め、手にボンドがついたら早めに水で洗い、いつまでも手を擦って、わざと作業をゆっくりとやり、疑問が浮かんでも相談しませんでした。




「こんなはずじゃなかった」という言葉で前も周りも見えませんでした。オブジェの納品をするとき、少し破損してしまいこっぴどく叱られたりと、僕はもう素に戻っていました。化けの皮が持ちませんでした。ぐにゃあ、ぐにゃあと視界がゆがみ、人の言葉が活字となって足元から体を這い上がってくるのが見えます。口にそれを突っ込まれ、僕は何も答えられません。重みで僕は頭を下げます。




それでもその日は、どうしても社長に言わなければならないことがありました。

次の週の水曜日は学校でテストがあるので出られないという話です。昼休み、外回りから帰ってきて遅めのご飯を食べている社長にそれを言うと




「いいよ、それじゃ明日から来なくて」と言われ、僕の時間が止まります。別に自分の都合だけ考えて言った冷やかしではないのです。

意味が解らず「いやいやwww」と答える僕。いつもそうです。

シャカフテ流対人術弐ノ型「笑って誤魔化す」です。ゲージがあるとき、それはオートで発動します。




「いやいやじゃねえよ、学校なんかいいんだよ。来られないならいいから。行けよ」と僕をあしらいながら、社長はその不機嫌を芋焼酎と一緒に飲み込みます。「はい。解りました。短い間お世話になりました」と僕は軽く頭を下げ、その日の退勤後、指定された給料日まで僕は社長と上手く話せませんでした。




弾みでそういう冗談を言うオッサンやおじいちゃんという生き物は、非常に多いものです。そういった嘘か本当か解らないキツイ言葉を社長から聞かされたとき、理不尽な言動の絶えない父の姿を重ねてしまった僕は「ダメだ」と感じてしまいました。




それからはもう夢を追いかけるとか、技術を培うとか、そういったものの価値が出ない嗚咽のように喉元につっかかってしまって、解らなくなっていました。プラモデルや工作を趣味にしていた僕は、大きなものを作る仕事に携わってみたいと思っていたから接客や販売のような大勢の人が経験したことのある職種よりもこちらを選んだのです。それなりに夢があって門を叩いたのです。

学校なんて行っている場合じゃない!学校を辞めて職人になれるならなりたい!とさえ考え息を巻いていたのに、その日はそれすらどうでもよくなり「やっと開放される」なんてイメージが頭の奥底に張り付いてしまって、ただただ自らの向上心の無さを嗤うことしかできませんでした。




夕方ごろ、休憩室の流しでお茶菓子を片付けているピアニッシモのお姉さんに半泣きでクビ宣告をされた旨を話すと「そういうことよく言っちゃう人だけど、冗談じゃないと思うよ。合わない人と仕事が出来ない人だから言われて辞めさせられた人は前にも居たし、それはしょうがないことだから、また他所でもがんばんな」と元気付けられました。ほんの少しだけ救われました。




その日は定時ぴったりでキリが良く終わり、逃げるように帰り、何故か正直に家族にもそれを話しました。こういう話をするとき、自分の考えに加担してくる家族の意見が、どこかウザったくて嫌いなのに、話さずにはいられませんでした。




「俺ってクリエイターとか表現者を目指してたけど、そのための努力にすら耐えられないんだなぁ」

そんな言葉が浮かんで、上手く眠る心の準備ができませんでした。体は泥のように疲れていたので爆睡しましたが。




そうして、二週間半のうち合計五日間の短すぎる夢への旅は終わりました。




思い返せば社長は、僕が専門学生であることを伝えるなり学校をdisりはじめ「お前もあんな詐欺グループに引っかかってんじゃねえよ。ウチのほうがよっぽど技術あるし、面倒見てやるから」なんて言っていたのです。確かに私立の大学や専門学校は商売でもあり、悪徳業者めいた側面が無いとは言い切れませんが、今すぐ辞めて社長についていったからと言って風向きがよくなったわけでもないはずです。機嫌が取れなくては辞めさせられたでしょう。




月末の給料日、アルバイトの手続きの書類やらが一切無く、あろうことか「働いた日を自己申告し手渡しで貰う」という戦後の復興支援でもやらないどんぶり勘定で給料を出していることが判明し、呆れて正直に申告したところ、何故か最低賃金以下の自給で働かされていたことが判明し、その夜はツイキャスで200円くらいのウイスキーの小さいボトルをお湯で割り、ベロンベロンに酔いながらブチ切れた記憶があります。









以上。







今回の給与:28,700円




ここまでの合計金額:


39,700円













─じゃあな。